ヒロスケの長崎歴史さんぽ 第27回 長崎街道から一ノ瀬口 其の一
◼️松嶋稲荷神社
・大明神=お稲荷さん。たくさんのお稲荷さんが合祀されている(19の御祭神)。
・参道にある、足立半顔(あだちはんがん)句碑
『松風の 里に琴柱の 赤鳥居』
※琴柱(ことじ): 楽器の琴のブリッジ部分
・平成4年に今の場所に鎮座。以前は国道34号バイパスの向かいもしくはバイパス上にあった。二回移転した。そのタイミングで赤鳥居が新たに建立されている。
・もともとは光雲寺の境内にあった。大村の捕鯨家 松嶋興五郎がお祀りして、神のお告げにより本河内に移ったという説あり。
・不呆尊神=ボケ防止
◼️旧長崎街道の図
・日見峠 矢上側から登ると険しいが、長崎側からだとそうでもない。傾斜的に。それが江戸から来る人に難所と呼ばれた所以なのでは。
・諫早永昌宿跡まで7時間、実際に歩いたらそのくらいかかった。
◼️蛍茶屋跡
・蛍茶屋は、団子屋というより料亭。
・豊澤廣助・富之助の碑
大阪の浄瑠璃の名家 豊澤家の興行記念碑。
浪花 豊澤廣助 崎陽 豊澤富之助
※富之助は興行の後、そのまま長崎に住んだ 長崎の豊澤家
『唐徒ね都類 道に能こ李て 【示へんに豊】乃者那
(たずねつる みちにのこりて かれのはな)』
※自分の芸の未熟さを道端の枯れ尾花に見せかけた名人の謙遜の句
ヨジマル! 広助のまたたび道中記 長崎市出島町(2020/07/27 KTN)
◼️出島の建築物
・西側の木造建築群は、江戸時代中頃の雰囲気を復元したもの。
・東側の石蔵、洋館類は幕末にオランダの居留地になったときに使用したものの実物。文化財になっているものもある。V形側溝は明治時代。
◼️出島の道幅
・真ん中より西側は道が広く、東側は道が狭い。
これは、火事がおきたときに、西側から燃えて、真ん中ぐらいで止まった。燃え残ったところは道幅は古いまま、燃えたところは今後延焼を防止するために道を広くした名残。
◼️出島に残るポルトガル
・ミニ出島の隣に配置されている、南蛮貿易にちなんだモニュメント『フレンドシップメモリー』
ポルトガル人彫刻家が製作した、日本とポルトガルの交流に尽力した6人の彫刻。フランシスコ・ザビエルやルイス・デ・アルメイダなど。
大阪万博1970で展示されたあとに、ポルトガルから寄贈され、1973年に現在地に設置されたもの。
ヒロスケの長崎歴史さんぽ 第18回 長崎甚左衛門と村の教会
◼️織部神社(長崎市夫婦川町)
・長崎織部亮為英(おりべのすけためひで)=長崎甚左衛門の弟 が祀られている。
・甚左衛門が追放された後も長崎に残った。
・お墓であるが、明治時代に廃仏毀釈で仏教をやめる必要があったので神社に。
・暖簾に、長崎家の家紋(やつぐるま)を見ることができる。
◼️長照寺別院 (長崎守護 織部善神堂)
・長崎家が仕えた大村藩は日蓮宗を信仰していた。
・廃されていたが、平成21年に再興。
・長崎祠記(しき)の碑 長崎の歴史が記されている。
・西道仙=長崎市議会議長が書いた。
・琴石 という石材。
◼️桜馬場公民館
・上長崎村役場跡=桜馬場公民館
・上長崎村の中心地
◼️桜馬場中学校
・戦国時代当時の住所は 肥前国 大村藩 長崎村 馬場郷 館(たち)
・長崎小太郎重綱(初代)が鎌倉からやってきて、この地を治めた。(14代が長崎甚左衛門)
・館の向かいは『二日市』と呼んでいた。毎月二日に市が開かれていた。
・明治時代に桜が植えられて、馬場郷が『桜馬場』となった。
・旧メインストリート(夫婦川から桜馬場中学校側に抜ける道)の突き当たりに、門があったと言われている。
◼️春徳寺
・大村藩はポルトガルと手を組んで軍事力を強化
ポルトガルは宗教の普及が目的。
・たばこは精神安定剤。トードスオスサントス教会は薬=たばこを使って布教した。
・コレジヨ・セミナリヨ=キリスト教の教育機関
ヒロスケの長崎歴史さんぽ 第17回 威福寺とキリシタン
(其の一)
◼️シーボルト通り東端
・新大工町よりも東側が長崎村。
・長崎街道ここに始まる というよりも、江戸が基点と考えると『終わる』が正しいという見方もある。
◼️桜馬場天満宮
・馬場郷。
・江戸時代は 威福寺 だった。
・一週間で小倉、そこから船で大阪へ、江戸まで約一ヶ月半の道のりだった。
・威福寺は、長崎最初の寺。長崎中心部は元々人が住んでおらず、開港してイエズス会に寄進したので、教会が先に建った。
・仏教を長崎へ広めるための拠点。
・明治の神仏分離令により神社へ。
・本堂は大正時代に建て直し。
(其の二)
◼️夫婦川町
・長崎村夫婦(めおと)郷
・雄川と雌川が流れていた
・織部神社側から流れていた?のが雄川、道沿い(とっぽ水側)から流れていたのが雌川
・今はなき、斎道寺境内に雄川の泉があった。現在はそれがどこであったか不明。